織田信長と天童市の関係


織田信長と天童市の関係について

 天童市の舞鶴山に織田信長をまつる建勳神社がある。信長は尾張の国に生まれ18歳で那古野城 を継ぎ上総介と称した。引治元年(1555)には清洲城を本拠として尾張の国を平定した。 また今川義元を桶狭間で破ったり、延暦寺の僧徒を討つため一山を焼き払った事などが有名である。 天正4年(1576)には豪華な安土城を築いて居城とし、戦乱の世を統一しようとしたが、 同10年(1582)京都の本能寺において明智光秀の襲撃を受け自害してなくなった。 このような英雄が天童市の舞鶴山にある建勳神社にまつられているのは不思議な気もするが、それは 天童に織田家の子孫が天童織田藩主として居住していたからである。
 天童織田藩は、信長の次男信雄にはじまる。信長が本能寺の変で非業の死を遂げ、長男信忠も死亡した。 それで信雄が宗家を継ぐことになった。はじめ、尾張・伊勢・伊賀・100万石の領主となったが、 豊臣秀吉と抗争し、結局5万石(大和酷万石・上野国2万石)になった。
信雄の嫡男信良が、信雄から上野国(現、群馬県)甘楽・多胡・碓氷3郡、2万石が与えられ、 小幡織田藩の藩主となり、宗家を継いだ。以後、信昌・信久・信就・信石・信富・信邦が藩主となり、 およそ150年甘楽郡などを支配した。
 しかし明和4年(1767)8代藩主信邦は、幕府を倒そうとする計画(山県大弐事件)に関係した というので蟄居を命ぜられ、9代藩主となった養子(信邦の弟)信浮は高畠に移された。 山県大弐事件は要するに天下にかかわる重大な問題を幕府に報告しなかったという不適切な処置を とがめられたものである。
 2万石の領地は陸奥国信夫郡(福島県)・出羽国置賜郡(山形県)および村山郡の3カ所に分けられ、 その後信夫郡の領地は村山郡内に替え地された。そして文政13年(1830)10代藩主信美が館や 藩役所を高畠から天童に移したので天童織田藩が成立したのである。ついで嘉永元年(1848) 10月高畠以下の置賜郡内の領地を取りあげられ、そのかわりを村山郡内に与えられたので、領地は村山 郡内にまとめられた。
 山県大弐事件による織田家への処分は高畠に移されただけではなかった。これまで信長以来の立派な 家柄を考えて与えられてきた一切の特権や待遇を奪われたのである。織田家は国持ち、城持ち大名では ないが、歴代藩主の官位は従四位下、侍従に待遇されていた。この事件のあとは江戸城においても 大広間詰から柳の間におとされ、諸大夫の家格として、ほかの織田支族と同格になった。 なお、鍛冶橋門内の上屋敷も没収された。さらに信邦の実父織田対島信栄までまきぞえをくって、 高家職を奪われ一定期間外出禁止を命ぜられている。織田家にとってはまことに厳しい処分であった。 それ以後の織田藩ではこれらの特権や家格の回復と関東方面への国替えが藩を上げての念願であった。
 慶応3年(1867)10月15代将軍徳川慶喜が大政奉還をした。同4年(1868)9月明治と 改元され、時勢は明治維新の新政府に移っていった。
 明治2年(1869)6月寿重丸は天童藩知事に任命されたが、幼少のためやめさせられ、代わって 信敏が天童藩知事に任命された。
 明治4年(1871)7月廃藩置県によって天童県となり、藩知事は免職され同5年(1872)東京邸に引き上げられたのである。
 天童市立旧東村山郡役所資料館発行資料より


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