吉田大八について


天童藩を救った吉田大八

 長い武家の支配を打ち倒し、天皇を中心とする近代国家への道を開いた明治維新は、天童の歴史に とっても大きな変革でした。1868年、江戸城が平和的に開城されました。しかし、幕府を助けた 会津藩(福島県)、庄内藩(山形県)に対して、討幕勢力は敵意をすてず、平和に事をすすめようとした 東北諸藩の努力にもかかわらず、ついに、会津で戦端が開かれました。天童もこのような大きな流れの 中にあって、その外にいることは許されませんでした。
 慶応4年3月、天童藩に奥羽鎮撫使先導役が命ぜられましたが、藩主織田信敏が若年であったため、 吉田大八が代理をつとめました。天童藩は討幕派官軍の急先鋒となり、吉田は幕府領であった最上川 以西がこれまで庄内藩によって管理されていたのをいろいろな難問を処理して接収にあたり手腕を発揮 しました。
 しかし、薩長兵が最上川を下って清川を突然襲ったことに憤慨した庄内軍は、六十里越街道を進撃して、 最上川の西岸まで迫りました。新庄に本拠をおく官軍は、天童藩、山形藩、館林藩、土浦藩北目陣屋に 出陣を命じ、それを阻止しようとしましたが、兵力や兵器とも劣った官軍は、これを防ぐ事が出来ず、 庄内軍は天童城下に殺到しました。手薄であった天童城をはじめ、天童の町のほとんどが焼き払われ てしまいました。
 どうしても会津や庄内を討たなければ気がすまないという薩長の主戦論に対して、東北と北越(新潟) の27藩は、白石に集まり、1868年4月23日奥羽列藩同盟を作り結束を固めました。これまで官軍派と みられていた天童藩もこれに参加しなければならなくなりました。吉田大八は、同盟側より、奥羽鎮撫使 先導役として官軍を誘導した責任を問われ、追求を受ける身になってしまいました。しかし、藩主に 累がおよぶことをおそれ、山形の同盟軍本部に自首し、6月17日小路妙法寺観月庵において切腹自刃しました。 天童藩の責任を一身に背負って自らを処した吉田大八は享年37才でした。
秋になって、会津の落城や米沢藩の北越での全滅により、同盟軍の敗色は濃く、9月末に全面降伏となり 東北戦争は終結となりました。

 天童市青年会議所発行「てんどう物語」より


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