しかし4年後、廃藩置県により天童藩は消滅し、軍楽隊も解体したが、明治 17年(1884年)建勲神社創建によって復活し、 以後春秋の例祭には武者行列の先導役を果たした。 この時の軍楽隊は旧天童藩士の子弟のみで編成されていた。 明治新政府の教育制度が普及するにつれ、士族の子弟で進学するも のが増え隊員の補充に支障をきたしたが、明治中期頃は身分の感情が強く、士 族の領域を冒されるという意識から、平民の子弟を隊員にすることを頑なに拒 んだ。
日清・日露戦争における、平民出身の兵士達の活躍で、天童維新軍楽隊は従 来の士族至上主義を転換し、大正初期に隊員資格を平民にも開放した。
昭和20年(1945年)太平洋戦争敗戦によって、国民の敬神の念は著し く低下し、神社は国家の保護放棄で苦境に陥った。祭礼時の行列もままならず 軍楽隊存亡の危機に瀕したが、当時田鶴町在住の青年達が立ち上がり復活を目 指した。
昭和38年(1963年)保存会を結成し、広く天童市内から隊員を募集し、 この時軍楽隊史上初の女性隊員も誕生した。そして現在は、15名の隊員が活 動を続けている。
昭和52年(1977年)天童南部小学校に保存会が協力を要請し、学校側 は郷土芸能クラブが「維新行進曲」を主として活動することに決定し、ここに 天童南部小学校維新軍楽隊が誕生した。