天童将棋駒の発祥

 全国の将棋駒生産の九十九%を占める天童特産の将棋駒産業のおこりは、江戸末期、 旧天童藩士が内職として始めたことに由来すると言われております。
 明和四年(一七六七)上野国小幡(現群馬県甘楽町小幡)から出羽国高畠に移封され た織田氏は、所領二万石のうち、三分の二に近い一万三千余りは、天童を中心とする 村山地方にありました。
 文政十三年(一八三〇〉藩庁を高畠から天童に移し、さらに嘉永元年(一八四八)には、 高畠にあった所領も村山に集中するようになり、実質天童織田藩が実現したのです。
 しかし二万石の所領二一ヵ村は、村山地方に散在しており、その支配統制には大きな 困難と支障があり、その上、連年の凶作もあって、家臣二百余人をかかえる藩の財政は 貧困をきわめました。
 藩財政の窮乏は家臣の生計を圧迫し、とくに下級藩士は生活の窮迫にあえぎ、内職に よつて家計を補いました。将棋駒製作もその一つであったと思われます。
 高畠時代、隣藩米沢藩では大阪の駒師を招へいして将棋駒づくりを始め、織田藩でも 米沢藩を通じてこの製造技術を習得していたものと思われ、文政十三年の天童移転後も 下級藩士の内職として伝えられていたものと思われます。
 それを織田藩家老、吉田大八 (一八三二-一八六八〉が武士の手内職として措極的に 奨励したことが今日の天童将棋駒の基礎を築いたものと考えられております。

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