舞鶴山つつじ公園

舞鶴山つつじ公園舞鶴山の建勲神社境内には、樹齢二百年以上とされる二百本以上の松が植えられている。 五月になると、この境内の北側では、松の木々の下に見事なつつじが生い繁る。



舞鶴山つつじ公園この境内には「はら中や物にもつかず啼く雲雀」の芭蕉の句碑をはじめ四基の句碑が立っている。 郷土の水墨作家、故高島祥光画伯は、晩年に「ここの松林を描いてから死にたい」と度々写生に訪れておられ、県内外から美術や茶道の愛好者が訪れているとのことである。



舞鶴山つつじ公園残りの三基の碑は、吉田大八、「はなかみ先生」高橋英雄、 および安藤広重百年祭の碑である。 「はなかみ先生」こと高橋英雄は、織田藩の御典医高橋家に生まれ、 長じてアメリカに渡り、絵画と音楽を学んで帰郷、郷土に迎えられず 苦労したが、ハナカミ運動、台所改善等の運動をし、そのかたわら 建勲神社境内の清掃や、つつじの手入れをやり、無欲な仙人の様な 生き方をしたので、後人が先生を慕ってこの碑を築いたものである。

安藤広重は、江戸火消同人徳右衛門の子として生まれ、後、狩野派を納め、 歌川豊広の門に入り浮世絵を学んだ。 藩財政が窮乏したため、広重と 交友のあった織田藩江戸詰めの家臣吉田専左衛門が広重に画を依頼し、 天童地方の金持ちより借金した代りにこれを与えて、織田藩財政立て直しの 一助とした。その功により、後人がこれを讃えて碑を建てて記念とした。 「天童広重」といわれている肉筆は、立斎という落款を付している。 数幅残されており市の文化財に指定されている。

参考文献:天童ライオンズクラブ発行「舞鶴山の歴史」

山形の方言

左馬の由来

天童将棋駒の発祥