天から童子が舞り降りた

「天童」と言う地名は、いつどのようにして付けられたのでしょう。
いろいろな説がありますが、その中の一つに、次のような話が伝えられています。

いまから、およそ千数百年もむかし、春うららかな、ある日のことです。
いまの舞鶴山の山頂で、行基(ぎょうぎ)という偉いお坊さんが、念仏を唱えていました。
ちょうどお昼を過ぎたころ、突然、山の上に、紫色の雲がたなびき、笛や太鼓の、美 しい音楽が聞こえてきました。
そして、その音楽とともに、二人の童子が、天から降りてきました。
一人は護衛童子(ごえいどうじ)、もう一人は摩竭童子(まかつどうじ)といいます。
そして、二人の童子は、ぼう然としている行基にこういいました。
「われは、自在天(仏)の使者にして、貴僧は、この山頂の大士(菩薩)なり、よろし く一宇(お堂)を建立し、一切衆生を念仏すべし。」
そういい終わると、どこへともなく去ってしまいました。
このことを聞いた村人たちは、急いで山に登り、童子の行くえを捜しましたが、見る ことはできませんでした。
行基は、二人の降りた霊峰を、童子にあやかって、それからは天童山と名付け、四万 の里を、天童と呼ぶようにしました。
それから、ずうっと後のこと、行基の弟子の基限(きげん)という人が、二人の童子、すなわち 少名彦那命(すくなひこのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)をまつつた天童殿(天童神社) を建立しました。
天童とは、二人の童を組み合わせて書くようになったといい伝えられています。
そしていま、人々が春らんまんの桜祭りを楽しむころ、めったに訪れる人もない、ひっそりと たたずむ天童神社にも、祭りを楽しむにぎやかな音楽が、松林越しに聞こえ、古いいい伝えを、 思い出させてくれます。
また、こんな話も残っています。
平安のむかし、慈覚大師(じかくだいし)が、比叡山(ひえいざん)で苦しい修行をしているとき、 すっかり疲れ果てて、視力もおとろえ、いまにも死にそうになっていました。
そのとき、天から童子が降りてさて、天の甘露(不老不死の飲み物)を大師に飲ませました。 そのおかげで、疲労は回復し、目もたちま良くなりました。大師は、その後も甘露を飲みながら、 修行を続けることができました。
しばらくして、大師が全国を行脚し、山寺に来たとき、山寺からはど近い、出羽の三っ森(越王山、 八幡山、舞鶴山)のいちばん西の山に、大師を助けてくれた天の童子、すなわち、天童という名を付け 、天童神社をまつったということです。


天童市青年会議所発行「てんどう物語」より

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